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『街場の読書論』

「どんなものを食べているかいってみたまえ。君がどんな人かいいあててみよう。」これはフランスの美食家ブリア・サヴァラの言葉である。この言葉は読書に関しても言える。そしてどんな本を読むかも大事だが、どのように読むかもまた大事である。本書を読めば、自分のしたい読書方法が見つかるはずだ。

 

 私たちが学校における国語教育として求められてきたのは、「作者はここで何が言いたいのか」、「この『それ』は何を指すのか」などのいかにその文章を読んだかということであった。そのような問いに答える力のことを私たちは国語力と呼んでいた。しかし、この考えに対し筆者は懐疑的である。この能力を仮にreadとするならば、scanするという能力もまた重要であるという。この2つの違いは、例えば、新聞を広げて、斜め読みしているとき、これはscanである。ふと気になる文字列が「フック」して、目を戻して、その記事を最初から読むのはreadである。筆者は私たちはこの「ひたすら文字を見つめる」という、scanするという訓練が少ないのではないかと指摘する。文字を浴びるように見ることにより、その本の世界をただ「観察する」のではなく、「思い出す」ように経験することができるという。なんだか難しい話となってきたが、私自身、scanするという重要性にこれまで気づかず読書をしてきたため、理解はここまでである。だがscanとreadという全く異なるタイプの読書が存在するというのは目から鱗だった。何か話をしているときに、その話題に関係する書物をパッといくつも思い出せるという人間は、このような読書をしているのではないかと思った。

 

私は普段、成毛眞さんの著書『本は10冊同時に読め!』を参考に、数冊の本を並列して読んでいる。この並列読書術の特徴はなんといっても能動的であるという点である。様々なベクトルの情報を自ら組み立て、体系的に理解する。これにより情報を取捨選択する力が磨かれるというものである。では捨てられるような情報とはどんな情報か。それは、自分からアウトプットしたくならないような情報である。本書ではそれを単に出力性が高い、または低いと呼んでいる。筆者は書物を論ずるときにこの出力性を基準にすることがあまりないのではと指摘する。そんな中『脳はわたしのことをホントに理解しているのか』の著者である池谷裕二さんの講演にて、深く腑に落ちる体験をする。その講演ではスワヒリ語というなんだかよくわからない単語40単語を「学習」して「テスト」をするという、単純な脳科学の実験が紹介される。この実験からわかることは、以下のことである。本書から引用すると、

"「学習」は脳への入力である。「テスト」は脳からの出力である。......脳の機能は「出力」を基準にして、そのパフォーマンス力が変化するのである。平たく言えば、「いくら詰め込んでも無意味」であり、「使ったもの勝ち」ということである。......パフォーマンスというのは、端的に「知っている知識を使える」ということである。出力しない人間は、「知っている知識を使えない」。「使えない」なら、実践的には「ない」のと同じである "

このように入力過剰で、出力過少の人間は、そのわずかしかない出力を「私はいかに大量に入力したか」「自分はいかに賢いか」を証明することに投じてしまうという。つまりせっかくの賢さを「私は賢い」ということを証明するために投じるという、全く無駄なことをしているというのだ。これは何とも腑に落ちる考えである。これを知って私のブログ熱がいっそうヒートアップしたのは言うまでもない。

 

本書には、本はなぜ必要なのかということから、どのような読書をすれば強靭でしなやかな知性を獲得できるのかまで、読書に関するたくさんの考えやアイデアが満載である。前述のとおり、使えない知識はないのと同じである。本書を読めば必ずや、あなたの読書が変わるはずである。

 

また筆者の「子供は読書なんかしなくてもよろしい」といった口調が、「よおし、そっちがそういうならオレは読むよ。読ませてもらいますよ。意地でも読んでやる。」といった向上心を掻き立てる。私自身も、よくわからなかった項目がいくつかあり、「コノヤロー」と何とも悔しい気持ちにもなった。本書は読書を趣味とする人にも、これから本を読もうと考えてる人にもお勧めである。読書に関して日頃抱いている疑問、考えをこれでもかと紹介する本書は、まさしく最強読書エッセイである。

 

 

街場の読書論

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